【あの子の話をしたい】亡くなった子どもの「生きていた時間」を語るということ

心をととのえる
「話したい」と思う気持ちの奥にあるもの

ときどく、不意に話したくなる瞬間があります。

あの子が着ていた服、いつも隣にいたぬいぐるみ、冬のひざかけ―――
それらがあの子が存在した記憶をやさしく呼び起こします。

「こんな表情でよく笑っていたね」
「こんなことすると喜んでたね」

口にしたくなるのは、悲しみのせいではなく
そこに確かに“生きていた時間”があったことを
もう一度、私が生きるこの世界に置いておきたいから。

語るという行為は
過去を呼び戻すというよりも
この胸の奥に今も息づいている―――輪郭がすこしずつ薄れていく記憶を
そっと形にすることだと、私は思います。

生きていた時間のひとかけら

あの子はカレーが大好きでした。

だから今でもカレーを作るたびに思い出します。
スプーンを近づけると大きな口を開けて待っていたこと。
飲むような勢いで、よく食べていたこと。

サラダなんかは途端に口を閉じてしまうのに
その対比がとてもおかしくて、たまらなく可愛かった。

テレビから流れる曲のリズムに合わせて笑ったり
お風呂で力が抜けて手のひらがふわりと開いたり―――

そんな日々の断片が、今も心の奥で生きています。
思い出すたびに胸がきゅっと締め付けられるのに
同時に、少しあたたかい気持ちにもなります。

その痛みとぬくもりの両方が
わたしにとっての“あの子が生きていた時間”の証なのだと思うのです。

語ることは、遠ざかる記憶にそっと手を伸ばすこと

今はまだ思い出せます。
声の響きも、あの子の吐息も、抱っこしたときの重みも―――
昨日のことのように頭に思い浮かべることができます。

けど、きっとこれから何年も、何十年も年を重ねるうちに
記憶は、悲しいかな、少しずつ薄れていく。
輪郭がぼやけていくのが現実なのだと思うのです。

どこか遠くの光景のように
少しずつ霞んでしまうんじゃないかと。

だから、語るたびに
その記憶の輪郭を、そっと指先でなぞるように感じます。
完璧には思い出せなくても
あの子がたしかに“存在した”という実感だけは忘れたくない。

語ることは、過去にしがみつくことではなく
忘れかけていく温もりや想いを
今の自分の中に刻み、確かめる行為なのだと思います。

だから仮に、周囲の誰かに
「まだ前に進めないでいる」」と言われても、それは違う。

語ることは、今をあの子と共に生きるための確かな方法であり
わたし自身が、日々を生きていく力にもなっているのだと思います。

聞いてもらえることの力

誰かが静かに耳をを傾けてくれるだけで
単純に嬉しくなります。

それも、悲しみはそっと横において
ただただ、「かわいかったよね」と共感してくれるだけで。
あの子がいたという事実を再確認できるのです。

語るというのは、自分ひとりでは成立できなくて
聞いてくれる人との間で初めて形になるものなのだと思います。

けれど、時々こんなことも―――

私があの子の話をしようとすると
「無理しなくていいよ」
「思い出すとつらいでしょ」と
優しさのつもりで話を遮られてしまう。

その気遣いはありがたい一方で、少しだけ胸がくるしくなることも。
だって私は“思い出してしまった”のではなく
“思い出したくて話そうとしている”のだから。

悲しみを広げたいわけではない。
ただ、あの子が確かに生きていたことを今
この瞬間にも感じていたいだけなのです。

だから、聞いてもらえるということは
私にとって“あの子が存在したことを共有できる”ということ。

その静かな時間があるだけで
心のどこかが、少しだけ軽くなるのです。

語りながら生きていく

あの子の話をすると、涙が自然とこぼれます。
それでも、話すたびに心の奥が少しあたたかくなる。

悲しみを消したいわけではありません。
どんな感情も、正直に、素直に受け止めていたい。

今でも、何年経っても、あの子のことを語ることで
お空に旅立った命が、
どこかで静かに呼吸をしているような気がします。
そしてその感覚が、わたしを今日も生かしてくれるように思うのです。

語るというのは、過去にとらわれることではなく
その子と共に生きた証を抱きしめながら
“いま”という時間を歩いていくこと。

そうして日々を重ねながら、
わたしは少しずつ、悲しみと共に生きていくことを
覚えていくのだと思います。

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